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2009年6月16日

鵜飼いの歴史

『日本書紀』神武天皇の条に「梁を作つて魚を取る者有り、天皇これを問ふ。対へて曰く、臣はこれ苞苴擔の子と、此れ即ち阿太の養鵜部の始祖なり」と、鵜養部のことが見え、『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。天皇の歌に「しまつとりうかひかとも」とある。また中国の史書『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった漁法として紹介されている。

『和名抄』には美濃国方県郡の鵜飼が掲げられ、『集解釈別記』には鵜飼37戸とあり、『新撰美濃誌』には方県郡鵜飼の郷9箇村とある。文明年間、一条兼良が美濃の正保寺に滞在し鵜飼を見物した記録がある。延喜年間には長良川河畔に7戸の鵜飼があり、国司藤原利仁は7戸の鵜飼にアユを献上させ、時の天皇の気に入り、方県郡七郷の地を鵜飼に要する篝松の料としてたまわり、鵜飼七郷とよんだ。平治の乱で源頼朝が義朝と敗走するとき、義朝とはぐれて長良川河畔をさまよい、鵜飼の長である白明の家にやどり、そこで食したアユすしの美味に飢えをいやしたが、建久3年右大将として上洛するさい、白明の子をよびだして恩に報い、また毎年アユすしを鎌倉に送るよう命じた。永禄7年、織田信長は長良川の鵜飼を見物し、鵜飼それぞれに鵜匠の名称をさずけ鷹匠と同様に遇し、1戸に禄米10俵あて給与した。元和元年徳川家康が鵜飼を見物し、石焼きのアユに感賞し、以来、江戸城に毎年アユを献上するのが例となり、鵜匠21戸に戸ごとに10両の扶持を給せられた。その献上の際には老中の三判証文をもって継立て江戸まで2昼夜で送致した。その後、鵜飼はおとろえ、文化2年には12戸となり、その12戸に毎年120石、532両2分を給与するとして、ふたたび回復した。明治維新で一時衰退したが、明治天皇の代にしばしば沙汰があり、大膳職に上納され、明治23年から稲葉郡長良村古津その他武儀郡、郡上郡の各村で延長1471間を宮内省の鮎漁の御猟場に編入された。

鵜飼漁で獲れる魚には傷がつかず、ウの食道で一瞬にして気絶させるために鮮度が非常に良い。このため、鵜飼鮎は献上品として殊のほか珍重され、安土桃山時代以降は幕府および各地の大名によって鵜飼は保護されていった。鵜匠と漁場の確保は、大名達にとっても面子に関わる一大事であったのである。

しかしながら、鵜飼は決して漁獲効率のよい漁法ではないため、明治維新後に大名等の後援を失った鵜飼は全国から次々と姿を消していき、現在は数えるまでにその規模を縮小している。

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現在の鵜飼は、客が屋形船からその様子を見て楽しむというように、漁による直接的な生計の維持というよりはもっぱら観光事業として行われている。例えば、愛媛県大洲市の肱川で行われている鵜飼は、戦後の昭和32年に「大洲観光うかい」として始まったものである。しかしながら鵜飼は同時に、無形文化財の保護という大切な側面も併せ持っている。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用

鵜飼いの歴史はとても古いようですね。一度見学してみたいです。

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